ここではないどこかから

ここどこ。フランス田舎町暮らしの中で想うこと、育児・食べること日常のこと、もっとほんわりした括りの雑感を綴りたい。

「日の名残り」と「並行世界」

ブームに乗ってカズオ・イシグロの「日の名残り」読了。まず第一に感じたのが翻訳書が苦手な私も読みやすい素晴らしい翻訳。彼の母国語が日本語だったから?語り手である執事が簡潔に理路整然と物事を伝える語り口だから?などと想像してみるが、彼の他の作品を読んでみたいと思わせてくれた。 

全体に亘り続くドライブ旅行の時間軸と回想シーンの時間軸が二つあるのも面白く、主人公がみた田園風景と私が普段運転しながら見るこの辺の風景が重なってとてもリアルに感じたりもした。

読み進めるまで、こんな最後の展開に辿り着くなんて想像もつかなかったので、驚きとともに心が揺さぶられる。まるで映画のラストシーンのように映像が浮かんだ。(映画化もされているようだが私は観ていない。)この感じは何処かで体験していると思ったのと同時に浮かんだキーワードは「並行世界」。大好きな小沢健二の「流動体について」でも歌われているし、日本へ帰る機内で観た「ラ・ラ・ランド」のラストシーンだ!とパズルのピースがはまった気がした。

語り手は自身の間違いに向き合うことなく、完璧な忠誠の名の下、自身で決断を下すことなく人生を歩んできた。最後に自分が犯した間違いに気づき、認め、やっと自分の人生における小さな決意をする。その小さな決意がなんとも可愛らしくユーモラスで、ホッコリとしてしまうのだが、そこにこの作品の魅力が凝縮されているように感じた。

誰にでも、あの時こうしていたら?という分岐点はあって、その最中にいるときは流れに身を任せているようだったり、流れに抗えなかったりするものなのかもしれない。或いは、第六感的な勘でエイっと選んでしまったり、深く後先考えずに決めてしまったこともあるだろう。私自身、思い当たる節は数知れない。

では、並行世界の私はどんなだろうと妄想してみる。彼女もきっと幸福や不満をだいたい同じくらいに抱えて、その時々を頑張ってるんだろうなと同士を得た気持ちになる。そっちはどうだい、上手くやってるかい?こっちはこうさ、どうにもならんよ。なんて時々話しかけるのもいいかも。(あくまでも心の中で)

 

 

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

 

 

流動体について

流動体について

 


サニーデイ・サービス「青春狂走曲」

 

 

 

娘の友人お泊まりのモヤモヤ

フランスの学校はだいたい六週間ごとに二週間の休みがある。長い夏休みの後、えっもう?というくらいの早技で秋休み的な物がやってくる。今週末から休みを前倒してパリに行くご両親がいる娘(10歳)の親友を1泊お預かりすることになった。娘も彼女も何度もお互いの家を行き来する仲で、娘も彼女が来るのを相当楽しみにしていた。まずかなりエキサイトしているのが、一目瞭然なほど多弁。ペラペラとまくしたて、ちょっと落ち着きなさいな、と夫と交互に諭される。このお泊まり、私としては娘が楽しく過ごせればいいなと思いつつ、いつもモヤモヤッとした気持ちになり、もうしばらくは来てくれるなと思ってしまう。

まずはその娘の落ち着きなさ。友達がいればもう最高!ママが呼ぶ声なんて聞こえない、無視しちゃう。といった具合で、何度も歯を磨け、風呂入れ、早く寝ろを言わされるため非常に疲れる。

そして食事。基本10歳の年齢なら残すくらいなら最初から食べないというのが常識と思っている我が家では、偏食少食な親友の食事が気になりすぎてしまう。最初に嫌いなものや食べられない物は聞いて盛り付けても、食事中何度もフォークを置き、かならずガッツリ残す。よそ様の子だし、きつく言うわけもなく、泣く泣くせっかく作ったおかずを捨てるのは胸糞が悪い。

恒例の水着でお風呂ももう今回が最後にしてもらおう。1時間以上もキャーキャーと…。 

極めつけは、折角寝かせてもコソコソとおしゃべりを続けている。休みといっても、まだ明日学校があるから今夜は早く寝なさいと言っても、修学旅行のお約束ごとの如く、部屋のドアをパッと開けるとまだ寝てない…の繰り返し。休みの日は少しは大目に見るのだが。

さて、風呂の辺りから私はいつになく厳しい口調で諭していたのだが、あまりの娘の「友達いれば母ちゃんいつもより怖くないし…」みたいなナメた態度にぶち切れてしまった。 

「次に来たとき寝てなかったら、お泊まりは今回最後にしてもらうよ。」と。

これが効いたようだが、何より一番のモヤモヤは、感じのいい母親で居させてもらえないことだ。そのうち、「〇〇のお母さんって厳しいよね〜」って言われて、友達も泊まりに来たがらないんじゃないかと。友達が泊まりに来たら少しは羽目を外させてあげたいけど、どうしても大人や親としての目が光ってしまう。ああモヤモヤ。娘の親友よ。貴方のことは大好きだけど、やっぱりしばらくは来ないでおくれ。

私の居場所

ここのところ、月に1回は夫の実家があるリヨンに行っている。リヨンには義姉一家も住んでいて、誰かの誕生日が必ずあるためだ。ここからすると大都会の都市へ車を走らせると2時間くらいで行ける距離なのだけど、土曜日に1泊して日曜の夜に帰るということが多い。夫と義父は長年微妙な関係にあり、いつもそのせいで私は微妙な空気が張り詰める中、義務的に家族行事に参加していたのだけれど、この夏からすっかりその問題が解消し、最近は実家に行くと実に幸せな家族時間が待っている。夫も嬉しそうだし、子供たちもおじいちゃんおばあちゃんやいとこたちと過ごすことが楽しみになってきたようだ。

リヨンには私の学生時代からの友人が2人住んでいて、かつてパリに暮らしていたときから会ったりしていたのだが、せっかくフランスに戻ってきてもお互い子持ちで仕事があったりで、なかなかじっくり会うことが叶わずにいた。

今回のリヨン行きの機会に孫を義母に預けて、友人達と会う段取りを組み、短い時間ではあったけれど、日本人大人女子3人だけでお茶をした。二人に声をかけるとき、ひょっとしたらお邪魔なんじゃないかなあと気を使ったのだけど、勇気を出して誘ってみたら二人とも二つ返事で駆け付けてくれた。

夫の愚痴やら子供たちの教育のこと、将来のこと、中年の自分たちの身体のこと、外国人としてこの国で暮らしていくこと、仕事のこと、話題はとりとめもなく、ただ私たちが母として妻として日本人として共有できるいろんな話をした。とても楽しくすっきりとした気持ちになって帰路につき、その余韻はしばらく続いた。次回はホテルに泊まって女子会しようね、YouTubeでカラオケしようね、と約束を思い出したりして。

ここには日本人もいないし、彼女達と共有したようなことを話し合える友達はいない。けれど、そこまでこういう時間を渇望していたわけでもない。いつでも彼女達とすぐ会える関係なら、実際はそんなに交流しないかもしれない。だいたい日本にいたって旧友と会うのは年に数えるくらいだし、実際はSNSなどでお互いの暮らしを知った気になっっていることの方が多い。時々会って濃く話すくらいの距離が心地良いのかもしれない。

最近、情報収集のためによくTwitterを見ている。昔は顔の見えない相手につぶやくこのツールの良さがあまり分からなかったのだけれど、今はとても良いと感じる。自分を知らない人たちに語りかけると共感する人たちがむくっと出てくる。リアルライフに共有できる相手がいなくても、自分の考えを共有できる知見がある人がいると嬉しい。例えば音楽の趣味話などは特に。自分を知らない相手だから気負いなくつぶやくことができる。時代のせいなのか、自分が何人もいると感じる。いろんな顔を持つということなのかもしれないけれど、そもそも人っていうのはそういうもんで、統合している自分がしっかりといればよいんだと思う。ブログやTwitterなどのSNSも私の居場所のひとつとなっていて、日本でのリアルな居場所を失った私のアイデンティティが保たれていたのかなあなんて考えてしまう。

自分の多様化はこれから時代とともにさらに進んでいくのだろうけど、世界が広がり、インプットとアウトプットのバランスが取れるならそんなにリスキーなことだとは感じない。ただ居心地のよい世界にだけ居ると、リアルライフがつまらなく感じることもあるかもしれないし、他人に興味が持てなくなるかもしれないなあとは思う。特に子どもたちがこういうツールを使い始めたら気を付けてもらいたいなとだけ思った。

リアルでもヴァーチャルでもインナーでも居場所は必要。居場所はどこにでもある。

アルバニアから来た彼のこと

私が住む町には難民の受入れセンターがある。CADA (Centres d'Accueil de Demandeurs d'Asileと呼ばれる施設は、NPOのようなアソシエーションが運営していて、資金の一部はおそらく政府から委託を受けているのではないかと思う。ここは、難民申請をした人たちが、政府の審査を受ける間一時的に住まう住居で、申請手続きの支援や子どもの教育支援などの生活支援も行っている。人口3000人にも満たない町に、アフリカや中東、東欧などから来たあらゆる国の人たちが一時的に滞在することになる。審査はおそらく1年以上程度かかるようで、認定された人々は仕事を求めてもう少し大きな町へ越していくらしい。非認定となった人たちは国に返されるのか、また別の国へ行くのか、詳しい事情はわからないが、一度結果が出てしまうとこの施設には住めなくなるようだ。

娘の学校に昨年末からアルバニアから来た一家の子供たちが通っている。当時は一言もフランス語を話せなかった子供たちはみるみるうちに言葉を習得して、今は地元の子供たちとごくごく普通に遊んでいる。同じく転校してきた娘は、もともとフランス語ができたけれど、逆にフランス語ができない子とどう接してよいのかわからなくていつも遠巻きに見ていた。

娘を学校に迎えに行くと、校門に中学生くらいの彼が妹を待っている。あとでわかったのだけど、妹ではなくて姪っ子にあたるようで、つまりその一家は2世代でこちらに来たらしい。

私がフランスに7年暮らした後、日本に帰国して就いた仕事は難民支援の仕事だった。主にアフリカのフランス語圏からきた難民申請者の通訳や生活支援を行うポストで、その仕事を通じて初めて難民の実情を知ることになった。実のところ、彼らが本当に迫害を受けてきたのか、国に住み続けられない状況にあるのか、正確には判断できない。それに、日本に定住難民として受け入れられるのは年にたったの数人で、ほとんどの難民申請者は非認定となり日本での定住は実現しない。また、たとえ認定されてもとても厳しい暮らしが待ち構えている。

フランスでは日本よりも受入れ数は多いものの、シリア危機などの影響で難民の流入はヨーロッパ全土の大きな問題で、国民も彼らの受入れにはシビアになっている。しかし、そんな難民に対する厳しい社会情勢はこの町ではあまり感じない。昔からユダヤ人の子供たちを匿ってきた歴史のある寛容な人々は、とても誠実に彼らと接していると感じる。

話は戻って、アルバニアから来た中学生くらいの彼は、なぜかうちの3歳の息子が大好きなのだ。まだフランス語がうまく話せない息子を見つけては、抱き上げてくれたり、公園で何時間でも遊んでくれたり、水を飲ませてくれたり、あの手この手で息子を喜ばせようとしてくれる。彼のご両親もうちの息子を見るといつもハグをして、眼尻を下げて何やら話しかけてくれる。背も身体も大きくて、昔のガキ大将みたいな風貌の彼に、息子は最初はおっかなびっくりだったのだが、最近は彼を見つけるとがしっと彼の太ももにしがみついて離れない。公園でほかの子供たちが沢山集まると、片言のフランス語でみんなをまとめて鬼ごっこなんかを主催してくれる。そこでも一番小さな息子を少し大きな子供たちから守るように遊ばせてくれる。

フランスでは公園に必ず親が付いてくる。でも彼は親代わりに自分の姪っ子たちを引き連れて遊びに来る。彼の国ではごく当たり前のことなんだろう。子どもたちもごくごく自然に年長の彼の言うことに従って楽しそうに遊んでいる。子ども同士が小競り合いになって親が間に入るところ、彼がみんなを取りまとめてくれているのを知っているのか、親たちは公園のすみっこでスマホなんかをいじったりして。

もしかすると、彼の一家がここフランスで認定を受けられる可能性はあまり高くないかもしれない。しかし、どんな事情であれ、思春期にある彼が祖国を離れて連れて来られたのは事実で、彼がこの先どうなるかわからない場所で力強く生きていることは確かなことだ。彼には明るい未来をつかみ取って欲しい。移民となっても祖国に帰ることになってもたくさんの人に愛されて信頼されて欲しい。全力で息子と遊んでくれる彼を見ていると胸がしめつけられそうになる。

在外選挙に間に合わない

当然ながら、ここフランスでは私は選挙権を持たない。日本で突然降って沸いた衆議院選挙。世界中で1票しかない私の投票する権利はできるだけ無駄にしたくない。

しかし不意打ちのこの選挙に、「在外選挙」という方法があると知り、そしてたまたま在外公館のあるリヨンに行く予定があるときだったので、投票する気まんまんでいろいろ調べてみた。

 

外務省: 在外選挙とは

海外に住んでいる人が、外国にいながら国政選挙に投票できる制度を「在外選挙制度」といい、これによる投票を「在外投票」といいます。在外投票ができるのは、日本国籍を持つ18歳以上の有権者で、在外選挙人名簿に登録され、在外選挙人証を持っている人です。

 どうやら投票するには在外選挙人証というものが必要らしい。この手続きをしないと投票ができないのだが、申請から2か月も時間がかかるらしい。今から申請しても投票には全然間に合わない。念のため、リヨンの在外公館に電話して尋ねてみると、やはりダメとのこと。でも、次の選挙のために登録しておくといいですよ。とアドバイスをいただいた。

田舎暮らしのデメリットはこれだ。主要な機関に出向くのに片道2時間はかかる。滞在許可証の更新のための書類を受け取りにこの間行ったばかりだったのにと。すっかり次の選挙のための手続きに行く意欲は失せてしまった。

ちなみに。事情があって、まだ日本にも住民票を残しているので、実家に届く投票用紙を家族の代理などでなんとか活用できないかとも思って調べたけれど、これもまた「郵送等による不在者投票」は病気が障がいを持つ方に限られており、「国外における不在者投票」は、海外に派遣されている協力隊とか自衛隊の人たち限定の制度で使えない。

じゃあ、1-2か月海外旅行している人や出張で海外に出ている人でタイミングが合わない人が必ずいると思うのだが、そういう人たちの投票権は無駄になるということか。この世の中そんな人たちは結構な割合でいるのに、その人たち向けの制度がないのはおかしい。そのほか洋上投票やら南極投票やらあまり一般人には関係ない制度もあった。

投票できないけれど、ニコ生でネット党首討論会などを観てしまう。トンチンカンさを晒してしまう人たち。投票前のとてもよい判断材料になると思う。どうしてこれを地上波でもっと頻回にやらないのか。ニコ生なんて見ているのはある程度ネットををいこなせる世代に限られてしまうのに。やはり、選挙にまつわる世の中の仕組みはおかしい。ちょっとなんとかすればどうにかなることだらけなのに。

でもやはり、次回後悔したくないので、在外選挙人登録手続きしに行こうと思う。私が2時間の片道運転と2か月の待ち時間でなんとかできることなら、なんとかしよう。

 

 

 

息子のために「ポケモンの神話学」を読んでみた

このテーマでずっとブログを書きたいと思っていたのだが、なかなか上手く書けそうにないので、先延ばしにしてきた。けれど、書かないことには何となくすっきりしないので、見切り発車で書き出してみよう。

3歳の息子がポケモンのアニメを見始めた。親は、まだ小さいのに分かっているのか?と思いながら見せていたが、みるみるうちにモンスターの名前を覚えはじめ、強く惹きつけれているようだったので、興味深くその様子を見ていた。これまで息子はいわゆる男子が好きそうな車や電車や戦隊もののおもちゃや遊びにあまり関心がなく、お姉ちゃんのぬいぐるみやおままごとが好きなようだった。それが、ポケモンを見始めた途端、これって男の子っぽいなあという特徴が見えてきた。あまり、子どもの好きなものに男性ぽいとか女性ぽいとかの分類で分けて、それが良いとか悪いとかいうつもりでは全くないのだけれど、男子といういわゆる異性を産んだ母として、男子ってなんだろう?という疑問をいつも抱えていた。なので、おや?これって男子っぽいなあと思った「ポケモン」に興味を持った次第なのである。

何が男子っぽのかというと、100種類以上あるモンスターの色形や呼び名を覚えては、知ってるよ!と教えてくれる。これは水系だよ!草系だよ!○○の進化系だよ!と知ったような口をきいているのだが、彼はどっぷりとモンスターの世界に入り込んでいるようなのだ。まるで、昆虫好きな男の子がいろんな種類の虫の名前を覚えてその特徴を教えてくれているような、または鉄道に魅せられた男の子が、列車の型名や色や形や路線図に詳しいように。このいわゆる、男の子が好きそうな世界とポケモンが同じ分野にあるような気がしたのだ。

とはいえ、私にはあまりにも疎い世界で最近流行ったポケモンGOなどもスルーしていた身としては、息子の頭で何が起こっているのかを知りたい!と、強く思った。そこで、ポケモンとは何かを知るために大学時代に講義を受けていた先生の本に確かポケモンについて書いた本があると思い出し、Kindleに入れて読んでみたのである。

 

この本をわかりやすく簡潔に解説する力が私には残念ながら備わっていないのだけれど、「男の子っぽいもの」て何だ?と、私が漠然と抱いた興味が思い過ごしではなかったと裏付けてくれたような気がした。まず、ポケモンはもともとゲームボーイという携帯ゲーム機のゲームソフトで、東京郊外に住んでいた昆虫少年がゲームデザイナーとなり、作り出したゲームだったということだ。モンスターは昆虫少年の実体験を元に描かれているものが沢山あるという。

紹介文から引用すると、”ポケモンに無意識の野生を呼び覚まされた子どもたちは、ゲームの中で異界のモンスターを追いかけ、その力を感じとっている”。という。この「野性」というキーワードはフランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースの主著「野性の思考」から来ている。(「野性の思考」の概要についてはたとえば、こちら。)もっと簡単に言うと、昔から子供たちが虫取りやザリガニを取って遊んでいたのと同じように、ゲームの中でモンスターを獲得したり交換したり、育てたりしている。”子供たちが欲する物は時代や環境によっては変わらない”という。この、「時代や環境が変わっても”子供たちにひそんでいる衝動”」が、「野性の思考」にほかならないという。

これまた、ざっくりとまとめてしまうと、このモンスターは150種類くらいの種類があるのだが、生態系などによって事細かに分類されている。分類をすることはカオスを秩序立てる知的な喜びを味わうことだという。つまり、”図鑑が好きな子どもなどは、「野性の思考」の喜びをかきたててくれる。”のだ。息子が、水系だよ!草系だよ!と生き生きと目を輝かせていたのは、知的な喜びだったのか…と目からウロコが。

この本では、ゲームの役割を肯定的にみている。人間関係がとりわけ商品の原理世界に覆いつくされようとしている現代社会で、ゲームは子供が持って生まれた「野性の思考」を匿い育てるアジール(避難場所)の働きをしているという。特に、その点においてポケモンは秀逸な傑作だと書かれている。

こちらの本ではゲームとしてのポケモン論が著述されているので、息子が惹かれたアニメの世界とはまた異質な物なのかもしれないけれど、もしもこのポケモンの神話学に当てはまるケースならば、子どもの心に潜む野生の芽を摘まないようにしなくては、と母として思うようになった。そして安直に、ポケモン図鑑(フランス語版)を買い与えて、二人で日本語版のモンスターの名前を言い合って遊んだりしている。

 

あまり理解力のない私は、あと数回この本を読まないとなかなか消化できない気がしているが、子どもが備えている「野性」の衝動と、「男の子が好きそうな物」の関連がいまいち解明できなかった。ザリガニ取りや虫取りをする喜びは女子の私にも覚えがあるけど、やっぱり男の子の方が専門的だし、マニアックだったりするよなあ。息子にもそんなマニアックさや精密さや理屈っぽさが備わった男子になって欲しいなあ、と私の理想のタイプを重ねてしまう。

 

空飛ぶイギリス人

先日、夫の新刊が出版された。これで何冊目となるのだろうか、夫は私と知り合う前には既に本を出していたものの、大当たりするような本はなく、それでも地道に細々と書き続けてきた。彼にとって書くことは正にライフワークで、その時間さえ持てるのなら、どんな仕事でもどんな生活でもよいという。知り合った頃は、売れるかどうかは問題ではなく、良質な本物の文学を書き、世に出していくことが大事だと話していた彼も、最近は売れたいというお金儲けの観点ではなくて、多くの人に読んでもらいたいという意味で沢山売れて欲しいと口に出すようになった。

今回の新刊は、初めての出版社ということもあり、これまでとは違うアプローチで多くの人に届けられるといいなと家族としては期待している。

 

とはいえ、夫も田舎での本業の傍ら、売り出しのために大々的なイベントに参加することもかなわない。それでも週末などを利用して、ちょこちょこと催しに参加している。

先週金曜日は隣町の小さなな町の本屋さんで、出版記念朗読会を開催してくれたので、家族で参加した。本当に小さな本屋の中のスペースに椅子などを置いて、本屋の店員さんとわざわざ足を運んでくれた数人の読者と、朗読をしながら、質問を受けたり、本にサインをしたりととてもアットホームな時間だった。マーケティング的に言えば、本当に細やかな催しではあったけれど、地域の良質な厳選された本を提供したいという熱心な本屋さんと、その本屋さんを信用して長年繋がっている地域のお客さんと、隣町に住む作家が、短いながらも本について語り合うことができるなんて、なんて素敵な時間だろうと思う。そして、そういう書店にはこれからも生き残ってもらいたいし、本を読む人にはなるべくそういう本屋さんとコミュニケーションをとって本を買ってほしいと思う。

 

さて、その夫の新刊のタイトルは直訳すると「空飛ぶイギリス人」。ある日、フランスの名もない小さな村にイギリス人が空から飛んで降りてくるという話。私たちが日本に住んでいたかれこれ数年前に書いたものなのだが、それが今出版となって、なんだか不思議な縁を感じている。設定は、今私たちが住んでいる田舎町くらいの規模で、おそらく時代はインターネットはもちろんテレビも電話もないような時代。田舎に暮らす人たちはイギリス人なんて見たこともなければ、英語さえわからない。ひょっとしたら彼が何人なのかもわからない。しかも空から降りてきた。

私もひょっとしたらこの田舎町では、アジアの国のどこかからある日突然現れたこの空飛ぶイギリス人みたいな存在なのかも知れない。今は日本がどんな国かみんな情報として知ってはいるけれど、日本に行ったことがある人も日本人に会ったことがある人も、日本食を食べたことがある人もほとんどいない町なのだ。と、フランスの田舎町に移住することなんて想像だにしていなかった頃、夫が数年前に書いた本の主人公と自分を重ねてみては、とても不思議な気持ちになっている。

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